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戦後80年を前に・・・私の中にいる戦争 横浜東民商 五十嵐マリ子さん
アメリカの爆撃で、東京が焼き尽くされた時には世田谷に住んでいて、家の芝生で、真っ赤になった空を見ていました。どの家も、防空壕を掘っていましたが、我が家は、生ごみの捨て場になっていました。
父は、寝台の下の方がずっと身を守れると言っていました。その寝台は2台とも鉄でできていて、今のようにスマートではありませんでした。東京大空襲の前に、小石川にいた祖父を我が家に迎えました。ゴロゴロと牛車で荷物を運んできました。その祖父は、陸軍少将で、戦中は、戦地に行く方に日の丸に何かを書いていくつも贈っていました。軍人だと威張っていたそうですが、父も伯父もあの戦争には反対の立場でしたので私は偉いと思ったことはありませんでした。
今になって考えると、祖父の下で働いていた女性が千葉から食料を持ってきてくれました。採れたての貝をむきながら、焼けただれた東京にはまだ死体があってそれを超えて千葉から世田谷の我が家まで持ってきてくださった軍国少女でした。
隣近所の方は、父の事を知ってか知らずか、皆さん良くしてくださいました。軍人配給があると、お隣の方と母がそれをもらいに行ったことを覚えています。
敗戦からかなり立って、一人の方が我が家を訪ねてきました。父が志那派遣軍総司令部に召請された時の友達でした。「この戦争は負ける」と父が言ったので、この非国民と思っていたけれどそれが本当だったので会いたくて来ました、と言って、ずっと話して泊まっていかれました。父は中国語が話せないので、飲み屋に行くと、英語のわかる学生に「中国共産党の歴史を学ぶようにと話した」と言っていました。
戦後の新しい憲法によって、はじめて女性と子どもの権利が認められました。「児童は人として尊ばれる」という児童憲章です。5月5日の子どもの日はこれを祝った日です。そして女性に参政権が与えられました。それによって、1千380万人の女性が初めて選挙の投票に参加し、39人の女性国会議員が誕生しました。父と母は重箱にご馳走を詰めて、原っぱで、ゴザを敷いて食事をしましたが、後に婦人参政権のお祝いだったことを知りました。