【神商連しんぶん2016年09月号】
  • ヒバクシャ国際著名を集めて! 核保有国に核兵器禁止を迫ろう!

    2016年原水爆禁止世界大会が被爆71年目の今年は8月4日から6日まで広島でおこなわれ、民商・神商連から下谷清人副会長(平和民主主義部長)をはじめ、9人が参加しました。「核兵器のない平和で公正な世界のために」をテーマにグリーンアリーナで4日におこなわれた開会総会には4500人、6日におこなわれた「広島デー集会」には5500人が集い、「広島からのよびかけ」(決議)が採択されました。
    国連の場で核兵器廃絶のための法的措置に向けて、議論が始まった状況を受けて、決議では「法的措置の具体化を検討する国連作業部会が核兵器廃絶条約の交渉開始を含む具体的な勧告を国連総会に求めるよう」世論を広げることを訴え、その具体化である被爆者が呼びかけた「ヒバクシャ国際署名」を大きく取り組んでいくことを提起。参加者は3日間の全体会や分科会の討論を通して、署名に大きく取り組んでいく決意を固めあいました。
    神商連から参加者したみなさんの感想を紹介します。

     


    米軍と自衛隊の一体化におどろき
    佐藤二六さん(戸塚民商)
    今年は動く分科会「呉基地調査行動」に参加しました。自衛隊と米軍が一体となった基地の大きさ、軍艦の多さにびっくりしました。日の丸と星条旗が一緒に掲げられ、自衛隊は日本を守るのではなく、米軍の後方支援に位置付けられていると感じました。ヒバクシャ国際署名のとりくみでがんばりたいと思います。

     


    亡くなった方々の魂に触れた
    森幸子さん(大和民商)
    すごく蒸し暑い広島。気持ちが湿り気味でしたが、アリーナについたら日本全国、世界各国からのたくさんの人々の核兵器廃絶の強い意志を感じ吹っ飛びました。アメリカ代表の方の「ことあるごとにホワイトハウスに手紙を送っている」との発言に敬意を払いたいと思いました。それに比べ安倍首相は・・・。6日は灯篭流しにも参加し、亡くなられた方々の魂にふれた気持ちを大切にしたいと思っています。

     


    いつもの生活が一瞬で地獄に
    小川さおりさん(大和民商)
    71年前も同じ暑い日で、戦争中で不自由でもいつもの生活がはじまろうとしていた8時15分。一瞬に広島が地獄に化したことを知りました。原爆ドームの前に立つと被爆者の方の話が耳から離れず、恐ろしくてその場から動けなくなりました。71年前の惨劇を繰り返そうとしている人たちがいます。その人たちの手招きを早く止めたいと思います。

     


    一人の平和行進から始まった
    下谷清人さん(県連副会長)
    分科会では平和行進の始まりを知りました。50年前、1人の男性が被爆者をなくすために立ち上がり、「私が歩くことで国民に知らせよう」と始めたそうです。それが今では日本の90%以上の自治体を訪問する平和行進に成長したのです。今、私がやれることは何かと考えた時、地元の非核平和の自治体づくりからと思っています。平和委員会にも入会しました。

     


    子ども代表の訴えに感動
    熊坂隆さん(戸塚民商)
    世界大会は初めての参加です。6日ホテルで6時に食事をとり、急いで会場に行きました。早くいったので、式典のテントの席に座ることができ、広島市長の話を遠くで聞くことができました。子ども代表の「後世に伝えたい」の訴えに自分も含めて多くの人たちが感動していました。それに比べて文書を読み上げるだけの安倍首相のあいさつに拍手もまばらだったのが印象的でした。

     


    初めて参加して心洗われる
    藤井よし江さん(多摩麻生民商)
    初めてで何の考えもなく、準備もない中での参加でしたが、心洗われる思いでした。平和であるようでいて、恐ろしい現実もあり、その中でいかに伝え、つないでいくか、大きな課題となりました。また、年老いて振り返り、今になって気づくこともたくさんあり、よい研修でした。ありがとうございました。

     


    被爆者の「あの日」を追体験
    石井文雄さん(相模原民商)
    私は動く分科会『碑めぐり・遺跡めぐり』に参加して、被爆者の体験を聞き、貴重な原爆遺跡をめぐり、被爆の実相を学び、被爆者の「あの日」を追体験してきました。被爆71年の今年、広島と被爆者の歩んできた道のりを見聞きし「非核平和の日本」「核兵器のない世界」の実現を強く想い、広島をあとにしました。

  • 仲間を増やして、弾圧をはね返し、最高裁で勝利しよう! 8月9日上告趣意書学習会

    「倉敷民商弾圧事件・無罪を勝ちとる神奈川の会」は8月9日に神商連会館で上告趣意書学習会・拡大幹事会をおこない、7団体46人が参加しました。小原・須増さんが税理士法違反で闘っている裁判で最高裁に提出した上告趣意書について、この弾圧事件の弁護団にも加わっている森卓爾弁護士が講演しました。
    森弁護士は最初に「治安を守ることと税金をとることは権力者にとって権力を維持する一番大事なこと。民商はその一つの税金で納税者の権利を守る運動の先頭に立ってきた。それは権力者にとって見過ごせないことで執拗に民商を弾圧してきた歴史がある」と紹介し、倉敷民商事件は被告3人を罰することが不当ということにとどまらず、納税者の権利をつぶそうとする税務権力が国民にかけた暴挙との闘いだと訴えました。 その後、強権的な徴収体制の補完的な役割を強いる税理士法の内容、税務申告の正しさを認めておきながら処罰する矛盾、民商の結社の自由を踏みにじっていることなど上告趣意書のポイントを説明しました。
    次に拡大幹事会として、12月の第2回総会をめざし、署名と「会員」拡大で世論を広げていくこと、そのため学習と地域の会づくりがカギと三浦事務局長が運動方針を提案し、討議しました。
    討議では7月23日に結成された「三浦半島の会」代表の富塚昇さんが45人の参加で結成までのとりくみを報告しました。また、民医連の松崎事務局長は「倉敷民商事件は『戦争する国づくり』を進める安倍政権が民主的な運動を抑えようとするもの。民医連にも弾圧があり、一緒にたたかっていきたい」、神建連の氏家書記長は「裁判の争点とともに、申告納税制度という国民が勝ち取ってきた民主的税制をつぶそうとする攻撃。そのことを国民的に明らかにしてたたかおう」と発言しました。

  • 「三浦半島の会」結成総会 7月23日 45人が参加

    7月23日、ヴェルクよこすかで「倉敷民商弾圧事件の無罪を勝ち取る三浦半島の会」の結成集会が行われ、45人が参加しました。
    集会では救援会神奈川県本部副会長で「神奈川の会」の副会長を務める赤間平和さんが講演をおこない、「これは民商活動そのものへの弾圧である」と本質を指摘し、税務権力が民商の「基本方向」にある団結・共同・連帯の3つの理念を嫌悪し、社会からの排除を狙ったものと訴えました。
    最後に、@2つの裁判所あての署名に取り組む、A岡山地裁の裁判の傍聴者を派遣する、B「会」の会員を増す行動提起がおこなわれ、役員体制を全員で確認して、終わりました。

  • 弾圧には拡大で反撃を! 8月9日「川崎の会」結成総会

    8月9日、「倉敷民商弾圧事件・無罪を勝ち取る川崎の会」結成総会・学習会がおこなわれ、民商、建設組合、救援会、生活と健康を守る会、公害患者の会などから50人が参加しました。
    総会では、浦野広明税理士が「倉敷民商事件の本質と自主申告権」と題した講演をおこない、その後、会則や体制を提案しました。
    参加した弁護士は「このような事は許すわけにはいかない。絶対に勝利しましょう」と訴え、税理士は、「税理士の立場から納税者の権利を守るために、一緒に頑張りましょう」と連帯の挨拶がありました。国鉄(現JR)で裁判闘争を闘った方からは、「市民にどんどん正しい事を知らせるほど支持は広がる」と大宣伝が強調されました。建設の組合役員から「講師の話を聞いて自信を持った」との感想が述べられました。
    閉会挨拶にたった国民救援会の役員は「民商の30周年記念誌を読んだ。民商は拡大で弾圧を反撃した経験がある。民商が倍返しで反撃を!」と激励しました。

  • 商売・人生を語る
    「どんなことでもビジネスチャンスに!!」 湘南民商 松本 好太郎さん
    【(有)パステル】自然食品販売 藤沢市本鵠沼1-1-21-A-102 TEL:0466-25-8555

    私は以前、服飾メーカーに勤務しており、当時、独立は考えていませんでした。しかし母が小さなブティックから築き上げた大切な空間を守る為、無理を言って一年半かけて退職しました。母と共同経営をしながら「お互いに自分を生かせる道」を見つけ、改めて独立しました。
    民商とは母とのつながりからお付き合いが始まり、経理上の勉強を通じて、深い関係になりました。独立2年後、税務調査が入った時は本当にお世話になりました。今はなくてはならない存在です。
    今後の商売の方向性はあまり明確ではありませんが、情報が加速し続けている現在社会では、どんなことでも自分の捉え方次第でビジネスに発展することができると思います。そんな加速続ける社会に遅れをとらないよう、自分の意識を柔軟に持ち、今後も常にチャレンジできる精神でがんばりたいと思います。

  • ふいごとそろばん 秦野民商 小宮山 行男さん

    「うちの会社潰れるぞ」と言ったその晩、産気づいた妻が生んだ娘がもう40才。あの日から始まった町工場の親父人生だったがよく此処まで続いたなと正直な感想。一応職人を気取ってはいるが、実は我流、修行したことなど一度もない。それでも何とか単品の試作品を作ったり、親父の金型造りを手伝ったりしながらのリベンジだった
    ▼思えばあの頃は音響メーカーが相手だったが今は音響メーカーなんて日本には残っていない。当然ながらわが社の親会社は自動車メーカーとなり、その下請けに変わってしまった。これも何時迄続くのか不安が無いわけではないが、あまり考えてもストレスになるので考えないことにしている
    ▼この様に柔軟にしなやかに、どんなに時代が変わっても、それでも俺は生きている。それが理想と強がっているが、実は人生の晩年を迎えつつある身にとっては最後をどうするのかが目下最大の課題
    ▼ここ迄続けてきた民商の会長をそろそろバトンタッチをうまくしないと今迄が無駄になってしまう気がするものね。がんばろう。

7つのまちがいさがし

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