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高すぎて払えない国保料がまた上がる!社会保障制度の充実を求め自治体要請
数年間に及んだコロナ禍に加えて、異常ともいえる円安と物価高騰でくらしも営業も窮地に追い込まれています。さらに、中小業者・国民のいのち綱である国民健康保険料(税)が多くの自治体で引き上げられ、苦難が広がっています。県内の民商では、負担軽減を図るため、減免申請を呼びかけるほか、県・地域の社会保障推進協議会(以下、社保協)で地域の人たちや他団体と一緒に国保料引き下げ、制度改善を求めて行動しています。
相模原市国保年金課と懇談
7月31日、相模原民商は地域社保協と市国保年金課との懇談に参加。県社保協は県内各自治体との懇談を提起していますが、この日が、県内で最初の機会となりました。
市は、予算検討時に県保険者に保険料を納付する際、22億円不足と判断し、基金の半額11億円を取り崩した。この賦課後の結果、1人平均額が110・3%、事業納付金が103.8%となり、税率改定で7.4%引き上げとなった。市民の所得増のともない税額も増え。余剰が見込まれれば基金からの取り崩しを減らす。10月からの条件緩和で社会保険への意向が全国45万人と言われており、相模原市では数百万人と見込まれる。今後も医療費上昇の傾向で、県内保険料統一については、相模原市の医療費水準は低い方なのできつい状況と話しました。
国保税滞納問題と収納率については被保険者の減少で滞納世帯も減っている。差し押さえ件数の増は、市税と国保税の滞納を一体に対応することによるもの。給料の差し押さえが毎月2万円ほどで5カ月のケースが多い。差し押さえはあくまで担保で、全額払い終われば解除となる。
短期保険証・資格証明証は7月にゼロとなった。医療費を全額支払った後、償還払いとなる「特別医療費」は事前に相談してもらえば極力発行しないようにしたい。医療の制限は市の趣旨ではないので、相談してほしい。
マイナ保険証は今年の3月時点で、53・4%に当たる7万956人が登録済みで利用率は7・9%。マイナ保険証を持っていない人には「資格確認書」を送るとし、参加者はその徹底を強く要望しました。利用を希望しない人は、10月から保険証紐づけ解除ができるとしています。大磯町町民福祉部と懇談
8月27日、県社保協の懇談要請に平塚民商も参加しました。
昨年10月の被用者保険対象拡大で国保の被保険者が減り、低所得者が残った。算定方法の変更や税率額の改正で保険料が跳ね上がるため、基金を全額取り崩し、法定外繰り入れもしたが賄いきれず、引き上げを余儀なくされた。比較的所得に余裕がある人が抜けたことや、平等割への反映などから世帯数が減った影響は大きい。国保財政の厳しさはどの自治体も同じだと思う。国や県は補填額を増やしてもらいたい、と担当者は話しました。
子どもの減免割は他の人への保険税が膨らむため考えていない。なるべく税率額を上げないよう進めたい。
今年から国保だけでなく、全額保険税からだった保険事業(特定健診・特定保健指導など)にも法定外繰り入れを行っている。来年度から保険事業は全額一般会計から法定外繰り入れする方向。保険料引き下げのための法定外繰り入れも行っており、保険者努力支援制度の減算項目に該当となり致し方ないが、マイナス査定にしないよう、国に要望する。
滞納者への「特別療養費」(窓口全額負担)対応は極力しない方針。納税相談で事情を丁寧に聞き取り、なるべく要望に応えるようにしている、などとしました。
県社保協はこの秋、相模原市・大磯町に続き、残る県内31自治体の国保課との懇談を計画し、参加を呼び掛けています。 -
あきらめず申請し減免決定!厚木民商
第3支部の飲食業Sさんは7月23日、厚木市国保課に国保料減免の相談に行き、必要書類を提示して申請書を提出しました。
持参した書類は、令和5年分の青色決算書と申告書、令和6年分の各種税金(住民税。固定資産税・国保料・国民年金保険料など)と生命保険の領収書など。
医療費や住宅家賃があればそれも加味されます。住宅ローンなどはケースバイケースです。
民商の相談会での試算は、資料さえそろっていれば簡単です。昨年分の所得から各種控除を差し引き、条件に合致しそうか目安を立ててから役所に行きます。
Sさん夫妻は、10日ほどで決定が出て、約4万円が減免されました。
国保納入通知書に「法定軽減」と記載されている場合は要チェック。一定以下の所得の場合、国が職権で2割、5割、7割の「均等割」部分について軽減するもので、厚木市は「法定軽減されていると、「申請減免」はできないとなっていますが認めている自治体もあります。「法定軽減」されていると払いきれないと感じる人もあるが、制度を変えさせるためにあきらめず要請しよう。「国保、高くて払えない!」と思ったら市に相談に行こう、と民商では呼びかけています。 -
核廃絶の展望を切り開こう!2024原水爆禁止世界大会in広島
原爆投下から79年の原水爆禁止世界大会が広島で開催され、全国から3千750人が参加。県内の民商からは神商連の山岸勇副会長はじめ10人が、県内の代表団(221人)と参加し、2日間学び行動しました。
開会総会では、実行委員会から提起された「広島からのよびかけ」が採択され、国連から中満泉軍縮担当上級代表、メキシコ、カザフスタンの政府代表、各界からスピーチが続きました。日韓の被爆者、マーシャル諸島代表が被爆の実相を語りました。
来年の被爆80年に向け、核兵器禁止条約を力に核廃絶の展望を切り開く大会となりました。森幸子さん 大和民商婦人部
原爆が広島・長崎に投下され79年目の夏、原水爆禁止世界大会に参加しました。
分科会では「原発ゼロをめざして」で学びました。福島など、沸騰水型軽水炉は、潜水艦と同じだから、深海に沈めれば安心。福井の高速増殖炉「もんじゅ」の危険性、ナトリウムの危険性が語られました。
ウランを日本に売りつけたのはアメリカです。プルトニウムは核兵器と転用可能です。恐ろしい限りです。
なぜ日本は、放射線被害を過小評価するのでしょうか。晩発性放射線障害もあります。福島には、援助があるのに、宮城の女川にはありません。女性ネットが独自で健康診断をやっているそうです。
広島の被爆2世の女性の方が、英語を勉強してアメリカに留学しました。その時に、アメリカの子ども達は、2つの原爆を落としたことで大戦は終結したと学んだ事を知りました。
戦争は武器でお金儲けのためにあるのではなく、民族の争いでもなく、不幸を生んでしまします。皆が平和について語り広めていける事を願っています。
最後に8月6日の広島閉会集会で全国より集まった高校生たちのバトンリレーを見て勇気をもらいました。下田利江さん 横須賀民商婦人部
被爆者の方のお話を直に聴きたくて、「ヒロシマの声を聞こう」の分科会に参加しました。お話しくださったのは爆心地から1・2kmに住んでいた三戸さん。当時4歳でした。治療と称して三戸さんの沢山の写真を撮った(治療は一切せず)、ABCC(原爆傷害調査委員会)。二世のお子さんのところにまで調査の依頼が来ることに怒りを感じました。
碑めぐりでは、原爆が炸裂した真下にあって、強い光線の影が台座の下に跡を残した地蔵さま。コンクリートの中で炭化している木の柱や元安橋の熱戦を浴びた側は、石の中のガラス質が溶けて滑らかでした。その熱さの中に人々がいた……、という事を想像してください、地獄絵です。
今現在、9583発の核弾頭が世界にあると聞きました。広島で「1万発以上」と聞いていたので減ってきたかと思いましたが、性能の上がった核弾頭に置き換わっているとのこと。
私は「戦争」って世界からなくならないと思っています。でも『核兵器』はなくさないといけないと思います。1日でも早く核兵器のない世界を作るため、広島での経験を活かして平和活動続けたいと思います。橋本奈穂子さん 茅ヶ崎民商婦人部
初めて見た原爆ドーム以外にも市内には、原爆遺構として当時の建物が残されていて、原爆の被害が、実際のものとして身に迫ってきました。
命が助かったにもかかわらず、病気、差別、偏見、そして肉親を亡くしたことからの経済的困窮という経験を世界大会の壇上から被爆者の方々が語ってくださいました。核兵器の凄惨さを次世代に伝えるために、永久保存すべき体験談でした。そんな中、話を聴きながら思い出したのが、民商の信条としてよく言われる『平和でこそ商売繁盛』は、毎日の何気ない生活は平和によって成り立っているのだと改めて思いました。
大会に参加して、同じ思いの人が大勢いることが確認でき、また、一人の参加者の後ろには、送り出してくれた多くの仲間の存在が見えました。
実家の片付けをしていたら、「戦争だけは絶対にダメだ」、と亡くなる数日前に書いた父のメモが見つかりました。平和の尊さを多くの人にわかってほしい。さて、どうやって伝えましょうか。 -
7つのマチガイさがし
応募はがきに絵を貼り、間違いの部分に〇をして送ってください。
〆切は9月25日です。正解者の中から5人に図書券をお届けします。
宛先は〒221−0823横浜市神奈川区二ッ谷町1-11 神商連しんぶん宛
FAX045-312-5244
▼8月号は24人から回答があり全員正解でした。正解者の中から5人の方に図書券を贈ります。
高宮潤一さん(泉区)
小森眞智子さん(川崎区)
細田節子さん(泉区)
滝頭武子さん(綾瀬市)
小川重明さん(相模原市)
▼答え
@左上の真ん中にある簾の長さ
A中央下の猫の尻尾の位置
B犬の舌の長さ
C扇風機のモーターの部分の大きさ
D右端のテレビの中にいる人の帽子
E中央の人の口の大きさ
F中央の人の靴下
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戦後80年を前に・・・私の中にいる戦争 横浜東民商 五十嵐マリ子さん
アメリカの爆撃で、東京が焼き尽くされた時には世田谷に住んでいて、家の芝生で、真っ赤になった空を見ていました。どの家も、防空壕を掘っていましたが、我が家は、生ごみの捨て場になっていました。
父は、寝台の下の方がずっと身を守れると言っていました。その寝台は2台とも鉄でできていて、今のようにスマートではありませんでした。東京大空襲の前に、小石川にいた祖父を我が家に迎えました。ゴロゴロと牛車で荷物を運んできました。その祖父は、陸軍少将で、戦中は、戦地に行く方に日の丸に何かを書いていくつも贈っていました。軍人だと威張っていたそうですが、父も伯父もあの戦争には反対の立場でしたので私は偉いと思ったことはありませんでした。
今になって考えると、祖父の下で働いていた女性が千葉から食料を持ってきてくれました。採れたての貝をむきながら、焼けただれた東京にはまだ死体があってそれを超えて千葉から世田谷の我が家まで持ってきてくださった軍国少女でした。
隣近所の方は、父の事を知ってか知らずか、皆さん良くしてくださいました。軍人配給があると、お隣の方と母がそれをもらいに行ったことを覚えています。
敗戦からかなり立って、一人の方が我が家を訪ねてきました。父が志那派遣軍総司令部に召請された時の友達でした。「この戦争は負ける」と父が言ったので、この非国民と思っていたけれどそれが本当だったので会いたくて来ました、と言って、ずっと話して泊まっていかれました。父は中国語が話せないので、飲み屋に行くと、英語のわかる学生に「中国共産党の歴史を学ぶようにと話した」と言っていました。
戦後の新しい憲法によって、はじめて女性と子どもの権利が認められました。「児童は人として尊ばれる」という児童憲章です。5月5日の子どもの日はこれを祝った日です。そして女性に参政権が与えられました。それによって、1千380万人の女性が初めて選挙の投票に参加し、39人の女性国会議員が誕生しました。父と母は重箱にご馳走を詰めて、原っぱで、ゴザを敷いて食事をしましたが、後に婦人参政権のお祝いだったことを知りました。